歴史

令和5年(2023)
7月 玉川町会盆踊り大会を、2023年7月21日(金)-22日(土) 二子玉川西地区ふれあい広場にて、4年ぶりに開催。

令和3年(2021)
1月 玉川町の居住者数は、世帯数6,412、人口12,411人(令和3年1月1日)。

平成27年(2015)
4月 二子玉川ライズ・テラスマーケット、109シネマズ、二子玉川エクセルホテル東急開業。二子玉川(玉川町および周辺エリア)における持続的なまちづくり活動を進めるエリアマネジメント団体として、二子玉川エリアマネジメンツが発足。

平成25年(2013)
4月 二子玉川公園が開園。

平成23年(2011)
1月 玉川町の居住者数は、世帯数5,765、人口11,197人(平成23年1月1日)。
3月 二子玉川ライズ・ショッピングセンター、二子玉川ライズ・ドッグウッドプラザ開業。

平成22年(2010)
4月 二子玉川ライズオークモールとバーズモールが開業し、町会会館がバーズモールに移転。
7月 二子玉川ライズタワー&レジデンスが竣工。

平成20年(2008)
10月 第1回二子玉川大山みちフェスティバルが、二子玉川商店街と二子玉川小学校を会場に開催された。

平成15年(2003)
7月 法人化(認可地縁団体制度)の認可。二子玉川防犯推進協議会が発足。

平成13年(2001)
1月 玉川町の居住者数は、世帯数4,613、人口9,125人(平成13年1月1日)。

平成12年(2000)
6月 「二子玉川東地区市街地再開発」都市計画決定。

平成11年(1999)
5月 兵庫島公園内に障害者用スロープ「風のこみち」オープン。
11月 二子玉川駅周辺地区が世田谷区環境美化推進地区に指定された。クリーンタウン作戦始まる。

平成10年(1998)
4月 兵庫島公園内には水洗トイレがオープンしたが河川敷では初めてのことであった。

平成8年(1996)
10月 新造神興完成披露パーティーが富士観会館にて開催された後、新神輿は高島屋S・C南館1階のプラザに展示される。瀬田・玉川神社の大祭に新神輿が町内を渡御、好天にも恵まれ大いに賑わった。

平成5年(1993)
7月 玉川町会盆踊り大会が復活した。

平成2年(1990)
6月 統一美化キャンペーン「ゴミゼロデー」実施。
10月 玉川町の居住者数は、世帯数4,289世帯、人口9,287人(平成3年1月1日)。

昭和63年(1988)
10月 秋の全国防犯運動の一環として「玉川防犯協会青年部結成式」に参加。

昭和62年(1987)
8月 二子玉川地区交通環境浄化推進協議会が二子玉川地区の交通環境の安全対策の推進を目的に発足した。。
9月 第5回玉川町会大運動会が二子玉川小学校を会場に盛大に開催される。

昭和61年(1986)
7月 川崎市制記念花火大会にあたり、1丁目河川敷に玉川町会警備本部を設け警備にあたる。

昭和59年(1984)
4月 「二子玉川兵庫島」が建設省主催による「あなたが選ぶ多摩川八景」に世田谷区で唯一の入選。二子玉川郷土史研究会(現二子玉川郷土史会)が「二子玉川地域史蹟めぐり」の大マップを和紙にて製作する。

昭和58年(1983)
4月 「太陽と緑と水と花みず木の街二子玉川」をテーマに、「第1回二子玉川花みず木フェスティバル」が盛大に挙行され、地域PRに大きな成果をあげた。

昭和56年(1981)
10月 玉川町会50周年を迎えた。

昭和55年(1980)
1月 玉川町の居住者数は、世帯数3,889世帯、人口7,523人(昭和56年1月1日)。

昭和53年(1978)
10月 「楽しいまち・健康なまち・協力のまち玉川」をテーマに、第1回の玉川町大運動会が開催された。

昭和52年(1977)
7月 新玉川線が開通。

昭和49年(1974)
10月 地域の子どもたちの健全育成を目的に二子玉川スポーツ少年団が設立された。

昭和45年(1970)
1月 この年の国勢調査で、世田谷区の人口は、78万7304人となっている。玉川町の居住者数は、世帯数3,885世帯、人口10,427人(昭和46年1月1日)。
12月 東急ストアがオープンする。

昭和44年(1969)
5月 玉川線・砧線が廃止となる。明治40年、渋谷一ニ子玉川間の開通以来、玉電の愛称で親しまれ地域住民に62年間利用された。
11月 日本最大ともいわれた玉川高島屋S・Cがオープンする。

昭和43年(1968)
7月 住居表示が実施され、鎌田町の一部が玉川3丁目に編入された。

昭和42年(1967)
4月 二子玉川振興対策協議会が二子玉川地域の振興発展と共栄に寄与する事を目的に発足。

昭和36年(1961)
10月 玉川町会30周年記念式典と、町会大運動会が盛大に挙行された。

昭和35年(1960)
4月 住宅公団二子玉川団地(現URシティコート二子玉川)完成、300戸の入居がはじまる。
10月 玉川町の居住者数は、世帯数1,941世帯、人口7,173人(昭和35年10月1日)。

昭和33年(1958)
9月 台風22号が襲来。東京都の被害は甚大で、玉川町も「治太夫堀」(現丸子川)の増水により玉川4丁目を中心に水害があった。

昭和32年 (1957)
6月 玉川町会会館が完成、落成式典が行なわれた。

昭和25年(1950)
1月 この年の国勢調査で、東京都の人口は628万7500人、世田谷区の人口は40万8226人となっている。

昭和23年(1948)
7月 瀬田中学校が創立された。

昭和20年(1945)
8月 戦後混乱の一時期、GHQ指令により町会名称を使えず「玉親会」と称していた。

昭和18年(1943)
7月 東京都制が施行された。太平洋戦争による学童の疎開が始まり、二子玉川国民学校の学童約300人が長野県に疎開する。

昭和17年(1942)
4月 現在の二子玉川小学校が二子玉川国民学校として独立した。

昭和15年(1940)
11月 京西小学校の分校として、現在の地にニ子玉川学校分教場が開校した。

昭和7年(1932)
10月 東京市の区域が拡張し世田谷区が誕生。玉川町会が発足する。それまでは東京府江原郡玉川村の一部であった。発足時の町の人口は、約1,000人、世帯数は200余。

抜粋
玉川町会70年の歩み
参考
世田谷区統計書